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『アニマ』1989年6月号No.201
渓流の山椒魚採り
かつて秘境といわれた南会津の山村檜枝岐では、サンショウウオが棲息する沢がたくさんある。今は数人になってしまった山椒魚採りのしごとを森の中にたずねてみた。
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江戸時代からの歴史

檜枝岐の人たちは、この山椒魚を白根山椒魚と呼んでいるが、正確にはサンショウウオ目サンショウウオ科ハコネサンショウウオ属種名がハコネサンショウウオである。イモリやオオサンショウウオも同じ目ではあるが、それぞれが科として区別されている。
 ところで、いったい日本人はいつごろから、何のために山椒魚を採り始めたのだろうか。
 山椒魚取りのことが載っている古い記録が二つある。
 ひとつは190年前(かんせい11年)に刊行されたもので、書名は『日本山海名産図絵』。当時の日本各地の特産物がまとめられていて、詳細な絵と説明が加えられている。「‥‥既に数十年の苦心を費やし、人の未だ見ざる所を弁ず。実に索隠探奇を為すの甚だしきなり。‥‥」と序文は大袈裟だが、今でいうルポルタージュである。どこまで本当に筆者が歩いたのかは疑わしいものの、当時の蝦夷から九州まで、実に広範囲に語られている。その中に、山椒魚が1項目として扱われており、作州・箱根・越後・相州・軽井沢・丹波・但馬・土佐の地名がでてくる。
 山椒魚採りの図も添えられている。左手に松明を捧げ持った男たちが、右手に持つ捕虫網のような袋で、滝を這い上がる山椒魚を採ろうとしている。これには「夜滝の左右の岩を攀じ上る‥‥これを採るに木綿袋にて玉網のごときものの底を巾着の口のごとくにして松明を照らして魚の上がるのを候い、袋をさし附して自ずから入るを取りて袋の尻を解き壷へ納む‥‥」と説明がある。
 薬としての効能も記されているが、わずかに「乾物として出し、小児の疳の虫を治す」となっている。
 もう一つは、明治8年に出版された『日本地誌略物産弁』の巻1。その中の相模国物産で次のように山椒魚を述べている。「箱根山中ノ渓間ニ産ス、‥‥その形イモリニ似テ黒ク‥‥山椒ノ香気アリ、故ニ山椒魚ト云フ、炙リ食エバ、小児ノ疳ヲ治ス、漢名黒魚ト云ウ‥‥」。
 このように、少なくとも200年前から日本人は山椒魚を採り、薬用として利用してきた。そしてこれは、限られた土地の特産品となっていたようだ。
 ただし理解しにくいのは、薬効が疳の虫にしかない山椒魚が、どうして代表的な特産品として二つの本にわざわざ紹介されいるのだろうか。昔の人がいう疳の虫が今よりももっと広い意味での小児の病気だったのか、あるいはもっと他に山椒魚が重宝がられていた理由があったのだろうか。
 檜枝岐で初めて山椒魚が採られた頃は、そのほとんどが中国に輸出されていたそうだ。そのための買付け業者が会津の喜多方から来て、昭和12年頃まで続いた。
 戦時中は食料増産のため山椒魚どころではなく、再び本格的に始まったのは昭和22年になってからだった。このときは東京の「へびぜん」という漢方薬屋に卸していた。

薬用から観光へ

 20年ほど前、それまで土地の人が誰も見向きもしなかった山椒魚を、1件の旅館が料理として使い始めた。それが次第に土地の名物となり、今では檜枝岐の旅館や民宿が、食事に冷凍山椒魚のてんぷらやフライを出すのが当たり前になった。また燻製は土産物としてよく売れるようになった。
 星さんの所から、山椒魚が薬として出荷されたのは、5年前が最後になった。毎年静岡の僧侶が買い付けにきて大阪方面に送っていたが、その人が高齢になり途絶えてしまったからだ。今では捕獲したものすべてが地元で観光客用に消費されている。
 小屋の中で燻されて硬くなった山椒魚は、その後、土間に敷き詰めたヨモギの中に入れられる。そこで再び水分を含み柔らかくなると、20匹ずつ頭と尻尾を束ねて紡錘形にし、また乾燥させる。束ねる時は必ず内側に雄を10匹、その外側をめす0匹が囲むようにしなければならない。
 この⑳p機を束ねた紡錘形が昔から決まっている最小単位で「ひとったま」と呼んだ。「とったま(200匹)」で「ひとさげ」と言い、昔は買い付けにきた人たちと「ひとさげ」何円で取引がされていたのだった。
 かつて日本の各地で生業として行われていた山椒魚採りは、その薬効が現代医学に取って替わられ需要がなくなり、また生息地が国立公園の指定を受けてしまったり、生息地の環境が破壊されたりして廃業してしまった。
 山椒魚採りは、もう何人もいない。

檜枝岐の民宿の夕食にでる山椒魚の天ぷら
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『日本山海名産図絵』
『日本地誌略物産弁』